国交省が東京都らと連携して具体的検討に着手

国土交通省は7月21日、東京都中央区の日本橋の上を交差して走っている首都高速道路を地下に移設する方針を発表しました。東京都や首都高速道路会社と共同しながら、日本橋周辺の「まちづくり」と連携して計画案の検討を進め、2020年の東京五輪・パラリンピック後に着工する考えです。

石井啓一国土交通大臣は同日の記者会見で「先の東京オリンピックに合わせまして、緊急的に整備された首都高速道路は首都・東京の大動脈として大きな役割を担ってきましたが(中略)貴重な水辺空間を消失するなど、都市の景観や快適さを損なうこととなりました」との認識を示し、その上で「単なる老朽化した首都高速の更新にとどまらない、魅力ある都市景観の再生」に向けて取り組む考えを示しました。

国の重要文化財に指定されている現在の日本橋は1911(明治44)年竣工の石造2連アーチ橋。装飾は全て青銅で、中央および橋台部4隅に花形ランプ付方錘柱を建て、各柱座には麒麟の像が配置されています。大蔵省をはじめ数多くの官庁を設計し、官僚建築家の巨頭(村松貞次郎『日本近代建築士ノート 西洋館を建てた人々』世界書院刊、1965)と呼ばれた妻木頼黄が装飾や彫像の様式にいたるまで統制しています。橋全体の設計は東京市技師の米元晋一、獅子と麒麟の像は彫刻家の渡辺長男がそれぞれ担当しました。

一方、橋の上を覆う首都高速道路は、1964(昭和39)年の東京オリンピック直前の1963(昭和38)年に完成しました。東京オリンピック開催に向けた高速道路整備では、山口文象設計による石造2連アーチの数寄屋橋が1959(昭和34)年に撤去されています。残った日本橋も、高速道路により歴史的な景観を損ねていると指摘され、かつての姿をよみがえらせる運動が持ち上がってきます。1968(昭和43)年には百貨店や商店、飲食店、企業などの老舗の経営者や地元の住民らにより名橋「日本橋」保存会が設立され、1983(昭和58)年には首都高速道路を地下に移設して、日本橋の雄姿を再生させる「よみがえれ日本橋宣言」を決議しています。このほか、日本橋地域ルネッサンス100年計画委員会、日本橋学生工房などによるまちづくり活動もあり、今後はこうした運動や組織と連携しながら都市景観を再生し、日本橋地域の活性化につながることが期待されます。

国土交通省関連HP
http://www.mlit.go.jp/report/press/road01_hh_000863.html

ニュースのヒト・コト・モノ

・妻木頼黄 つまき よりなか、1859年-1916年
幕臣旗本の長男として江戸に生まれる。工部大学校造家学科(後の東大建築学科)に入学するが中途退学し、アメリカに留学してコーネル大学で学士号を取得、1885年に帰国した。帰国後は東京府、内閣臨時建築局、内務省、大蔵省に勤務し、数多くの官庁を設計。官庁、内閣、税関、専売局などの営繕を統括した。現存する代表的作品は横浜正金銀行本店(現神奈川県立博物館、重要文化財)、横浜新港埠頭倉庫(現横浜赤レンガ倉庫)など。

〈妻木家と東大寺大仏殿〉
江戸時代、元禄の東大寺大仏殿再建にあったて幕府が奈良奉行に任命したのが妻木頼保(1640-1707)。その子孫である妻木頼黄も大仏殿の明治大修理には内務省技師として派遣され、修理の設計図書を提出(明治24年案)。その後も数度の調査や名誉顧問として修復に関わった。

・日本橋
1603年に創架され、江戸幕府により五街道の起点として定められた。現在の日本橋の両端には獅子像が、高欄中央部の照明灯には麒麟(きりん)像が飾られている。また、日本橋の中央には日本国道路元標が埋め込まれ、その直上の首都高速の高架橋上には、東京市道路元標(現在は橋の北西側に移設)に似せたモニュメント(道路元標地点碑)が設置されている。

・山口文象 やまぐち ぶんぞう、1902年-1978年
組織設計事務所の株式会社RIAの前身であるRIA建築綜合研究所を設立した山口文象は、建築だけではなく土木デザイナーとしても活躍している。関東大震災後の1924年には、内務省復興局橋梁課の嘱託技師となり、清洲橋、数寄屋橋、浜離宮南門橋などの橋梁デザインを担当。また、日本電力の嘱託技師として富山県の黒部川第二発電所と目黒橋、その上流にある小屋平ダムと沈砂池など、ダムや沈砂池まで設計した。

文責:Luchta編集室
※本サイト内の記述、画像、写真の無断転載・転用を禁止します。