マチュピチュへの旅
1984年、当時10年勤めた設計事務所を退職し、長い自由な時間を得て、行きたいと思っていた南米旅行を計画しました。特に失われた空中都市といわれていたインカ帝国の遺跡「マチュピチュ」に行きたかったからです。きっかけは、建築家前川國男さんの1975年のインタビュー記事。「4、5年前にペルーのクスコってインカの大都市に行ったことがあるんだ。インカの遺跡がみたくてね。そこへ行ってびっくりした。少し小高いところに町が出来ているのをみると土と同じなんだよ。非常に感動した。(中略)土がそのまま持ち上げられてできたような風景だった。あれなんかも、自然が自然に対して責任を持っているから美しいんだ。といような説明がそのまま通るような感じだったよ」(※)と話されていました。お聞きした話だとそこはマチュピチュという遺跡で、その中のホテルに泊まったということでした。当時、南米の旅行は、行った人も情報も少なく、距離も含めて遠い場所でした。東京・代官山の南米専門の小さな旅行社を見つけて、前川さんが泊まったホテル(わずか15室の国営ホテル)に予約を入れて、その日を基準にして南米全体の旅の計画を立てました。
この旅行は、当時友人が海外協力隊でペルーに行っていたこと、チリに住んでいた親戚がいたことも後押ししたと思います。ペルーのリマからはじまり、クスコ、マチュピチュ、そしてチチカカ湖からボリビアの首都ラパス。地上絵のあるペルーのナスカ、ペルーアマゾンの街イキトス。チリからは、遠いイースター島までを行く旅となりました。
(※) 「作家と風景」『SPACE MODULATOR』46号、日本板硝子(株)、1975年9月より
クスコからマチュピチュへ

マチュピチュへ向かう列車(1984年撮影)
ペルーの首都リマから約1時間。飛行機は雪をかぶった山々を眼下に次第に高度を下げていきます。緑の少ない土色の山の間を抜けるようにして旋回したとたん、赤褐色の瓦屋根一色の大きな街が現れます。それがインカ帝国の首都として栄えた街、高度3,400メートルの高地にあるクスコです。
かつてインカ帝国は、北はエクアドル、南はチリまで広大な土地を支配していましたが、16世紀初め、わずか数百人のスペイン人によってたちまちのうちに滅ぼされてしまいます。この屈辱的なドラマを象徴するかのように、クスコの街並みはインカ帝国時代の石積みを土台にして、上にスペイン様式をもつ建物が立ち並んでいます。一分の隙間もなく積まれた、この石積みの技術には、ほんとうに驚かされました。
クスコの街で高度順応に2、3日をかけてから、早朝、マチュピチュ行きの列車は、スイッチバックを繰り返しながら、クスコ盆地をあとに出発します。景色は田園風景から、次第にアマゾン川の源流であるウルバンバ川の渓流沿いへと進み、深い山々に囲まれた駅に昼前に到着します。今は、オリエント急行のような豪華観光列車が通っているようですが、当時そのような列車はもちろんなく、乗った車両は私が中学の修学旅行で乗った「ひので号」という、日本からペルー国鉄に払い下げられた電車でした。
クスコの街並み(1984年撮影)
マチュピチュ遺跡へ

谷底の駅からバスで上る(1984年撮影)

ホテルとレストラン(1984年撮影)
上部に遺跡があるとは思えない谷底の駅に到着して、見上げると、小さなバスが点のように、ジグザグの道を上っていくのが見えます。バスで上り詰めると、2階建ての山小屋のようなホテルとレストランがありました。これが旅行のきっかけとなった国営のホテルです。
休むまもなく、遺跡に向かいます。道を抜けると、そこには信じられないような光景が待ち受けていました。山の鞍部には、石積みの畑、妻壁が残された家などがへばりついた遺跡が現れます。
遺跡の段々畑(1984年撮影)

遺跡内部(1984年撮影)

朝の遺跡とワイナ・ピチュ山(1984年撮影)
正面にはとがったワイナ・ピチュとよばれる山が遺跡全体を見下ろしています。ここには、神殿や王宮、邸宅、倉庫などが所狭しと立ち並び、周囲の斜面には、無数の段々畑や、水源から水を引く灌漑施設もあって、時給自足可能な街が造られていたのでした。その日は日の暮れるのを忘れて、遺跡内を歩き廻りました。夕方暗くなってくると見学客のほとんどは下の街にある宿泊場所にバスで降りて行きます。遺跡の山中のこのホテルに泊まる人数しかいないので、遺跡内はとても静かなたたずまいでした。

マチュピチュ遺跡全景(1984年撮影)
所在地
ペルー、クスコ、マチュピチュ
竣工年
15世紀半ばに建造とされている
ワイナ・ピチュ山に登る

ワイナ・ピチュ頂上より(1984年撮影)
早朝、まだ霧に包まれたワイナ・ピチュ山をめざして、ひとけのない遺跡を横断して登山口から登りはじめました。険しい岩山のなかにインカ時代の道が続いていました。頂上付近にも段々畑の石積み跡があるのには、驚きました。大きな岩でできた頂上からは、アンデス山脈の雪をかぶった山々、眼下に小さくマチュピチュ遺跡が見える光景は、今でも目に焼き付いています。
1911年の冬、一人のアメリカ人が、谷間に住むインディオの子どもに山の上の石積みのことを知らされ、険しい谷をよじ登ると、うっそうとした茂みの中に花崗岩でできた遺跡を発見した時の興奮はどんなものであったかを、その時考えていました。
旅というものは、本や映画などでの出会いや、行った人の話などを聞くことによって、自分も行きたいという好奇心が沸いてきて実行するものです。情報過多の時代になると、多くの映像などで行ったような錯覚しか得られなくなってきています。行こうという行動による生で見る体験は、ますます大事になってきていると思います。
できるうちに おおいにこのような旅を実行してください。
文・写真:大澤 悟郎 一級建築士事務所 大沢悟郎建築アトリエ
この連載は、JIA関東甲信越支部広報委員会とLUCHTAの共同企画です。
著者紹介

大澤 悟郎
(一級建築士事務所 大沢悟郎建築アトリエ)
JIA正会員
所属
公益社団法人 日本建築家協会(JIA) 登録建築家
NPO法人 耐震総合安全機構(JASO)
略歴
1951年 東京に生まれる
1974年 東京理科大学工学部建築学科卒業
1974~1975年 東京都美術館現場事務所(前川建築設計事務所)
1975~1984年 三上祐三+MIDI綜合設計研究所
1984~2012年 株式会社 TOS計画工房 代表取締役
2012~ 一級建築士事務所 大沢悟郎建築アトリエ 設立
1996~2019年 日本大学短期大学部 建築・生活デザイン学科 非常勤講師
2012~2024年 世田谷区 住宅委員会 専門委員
2012年~ 世田谷区木造耐震診断士
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