[連載]なにもしない時間のみえない建築01|堀越優希

新しい空間の糸口は、何気ない毎日の生活、いつも通る道にあるのかもしれない。しかしどうしたらそれらが見えてくるだろうか。建築家の堀越優希は、建築設計の傍ら、住まいである東京を中心とした都市の風景画を独自のスタイルで描いてきた。このドローイングは、都市の観察術であり、アンコントローラブルな都市を再構築する介入行為にも見える。これはそんな、建築・都市とどのように向かい合っていけるかを模索する一人の建築家による、ドローイングとエッセイの連載である。

四六時中ネットにアクセス可能な現代の生活では、ふとした時についスマホを取り出し眺めてしまう。知人や友人と一緒にいるときですら、片方が携帯を取り出すと、触発されるようにもう一方も見始めるといったことはよく起きる。通勤電車の中や、街角の様子を眺めていると、こういったふるまいが無意識のうちに行われるようになっていることを認識させられる。このようなふるまいの良し悪しが語られることはよくあるが、私はこうした状況が日常に根付きつつあるという認識から、その先に立ち現れる建築の空間性について考えていきたい。

スマホや携帯電話がなかった時代を思い返してみると、何もせずボーっとするような時間がもう少しあったように思う。ボーっとするというのはうたた寝で意識が朦朧としているということではなく、なにかの待ち時間に手持ち無沙汰になって考え事をしたり、周りの景色を眺めていたりしているような時間のことだ。こうした時間というものは、あとから何をしていたか思い出そうとしても難しく、記憶として残りにくい。あとからは、「なにもしない時間」であったとなんとなく思うだけだ。

子供の頃の一日が大人よりも長く感じるのも、このように持て余す時間が多いからではないでないだろうか。世間は大人の時間で動いており、子供は大人の都合にあわせて行動しなくてはならない。大人が買い物をするときは待っていなければならないし、待ち時間に必ずしもなにか楽しめるものがあるわけではない。成長するにつれ、自分でコントロールできる時間は増えていき、本を持ち歩くなど時間を持て余さないようにする術を身につけていく。スマホを手に入れてからは、こうした合間の時間の退屈さを瞬時に解消できるようになったと思う。

退屈さを解消する術を持たないときは、目の前の空間に対して新たな刺激を求めるより方法がない。その場が退屈に感じたときに、なんとなく周りをぶらついてみたり、あたりを観察したりするのは、身体的な欲求レベルで空間に働きかけるふるまいだ。冒頭でも述べたように、スマホを見るという所作もほとんど無意識化されている。こうしたふるまいが行われる「なにもしない時間」というものは、日常の中の意識的な行為と無意識的な行為を橋渡しするような時間といえるだろう。

私が以前同居していた祖母は、だいぶ年を重ねてから都心に引っ越して来た。いまさら新たな人付き合いは億劫だということで、普段友人との交流はほとんど無く、近隣との関わりも薄かった。しかし、日々の買い物先では、よく唐突に隣にいる人に話しかけ、一言二言のやり取りを楽しんでいた。子供の頃の私は、突然他人に話しかけるような積極性にいつも驚きを感じていたが、祖母にしてみれば、このようなふるまいの切り替えはいかにも自然であるようだった。

また、妊娠した妻と一緒に出かけていた頃、電車やバスの中で人から話しかけられる機会が増えた。その時の多くは年配の方であり、自分たちの世代のよりもこうしたふるまいに対する抵抗が少ないように感じられた。このような人付き合い以前の交流は、身体反射のように空間を共有するふるまいといえる。

過ごしてきた時代や環境により、「なにもしない時間」に対して身につけたふるまいは異なる。スマホをもたなかった世代は、目の前の実空間に対して働きかける欲求が強いということもいえるかもしれない。しかし、それを単にジェネレーションギャップの問題であると考えると、世代感の断絶といったような方向に話に向かってしまう。それよりも、こうしたふるまいと、スマホを不意に見てしまうようなふるまいは、「何もしない時間」に関する同じ延長線上にあるものとして捉えてみたい。こうした思考を重ねることで、正体が判然としない「なにもしない時間」の空間性を、じわりじわりと捉えていくことができるのではないだろうか。

「なにもしない時間」の反対は「なにかする時間」である。それは、時間を有用なものと無用のものに分けるということであり、現代の生活はこのような考え方で効率化し、発展した産業の上に成り立っている。もし、「なにもしない時間」のための空間をつくるとすれば、それは無用な機能のための空間ということになる。

しかし、無用と思われた偶然の産物が、じつは全体の中で有効に作用するというのはよくある話だ。高度に産業化する以前の建物は、このような偶然を繰り返しながらゆっくりと発展を遂げてきたはずである。現代の建築と比べ、日本の伝統的な建築空間には1つの目的に仕分けられないような中立的な領域が多く見て取れる。たとえば、外部と内部の間には土間や、中庭、縁側、といった多様な空間がある。これらの空間は、当時の人々の生活のふるまいと有機的に連続している。

豊かな有機的空間をつくり出すためには、「なにもしない時間」として、無用とされたふるまいも内包していなければならない。リアルな日々の生活のなかで、「なにもしない時間」として見えなくなっている物事を、この連載を通じて探っていきたい。

中景360-4/Middle Landscape 360-4

歩道橋の高さは街のどこにも属さない。ふと横をみれば、道路の上空はぽかんと抜けていることに気がつく。まるで街から飛び出してしまったかのように思われるこの瞬間も、またすぐに忘れてしまうだろう。
Ginza, Tokyo

Spherical Image – RICOH THETA

文・画:堀越優希
編集:山道雄太

著者紹介

堀越優希(ほりこし・ゆうき)
建築家(一級建築士)/1985年東京生まれ。2009年東京藝術大学美術学部建築科卒業。2010年リヒテンシュタイン国立大学留学。2012年東京藝術大学大学院修了。石上純也建築設計事務所、山本堀アーキテクツを経て、2019年独立。主な担当作品に、《Polytechnic Museum, Moscow》《東京藝術大学Arts & Science LAB.》《小高交流センター》などがある。主なドローイング作品に、絵本『家の理』(作画/著・難波和彦、平凡社、2014)、教科書『PROMINENCE』(挿画/東京書籍)、音楽CDアートワークなどがある。
https://yukihorikoshi.tumblr.com

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